劣等感をなくすコツ 比較対象は「他人」でなく「昨日までの自分」

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職場や学校、コミュニティ等に属すれば、他人と関わることを避けて通ることはできません。

他人と関われば、全員と仲良くすることは難しく、好きな人もいれば、嫌だなと感じる人も出てくるものでしょう。

「好き/嫌い」という感情は、ほとんどの人にとって、感じたことがある感情だと思います。

また、「幸せ/不幸せ」の感情も同様だと思います。

しかしながら、これらの感情に執着」してしまうと、私たちはストレスを感じたり、嫌悪感や劣等感というマイナスの感情を抱いてしまいます。

マイナスの感情を抱く時間が長ければ長いほど、悪いことを引き寄せやすく、時には自らの心身にダメージを与えてしまうなどの悪循環に陥ります。

今回の記事では、「自分は不幸だ」「誰かのことが嫌いだ」といったマイナスの感情をテーマに、アドラー心理学の教えを解説した大ベストセラー書籍『嫌われる勇気』の中から参考になる部分をピックアップし、どうしたら気持ちが楽になり、嫌なことを考えなくなり、幸せを感じられるのかについて考えていきたいと思います。

1.不幸を感じる人は、「今の自分を変えない決断」をしている

ストレスとの付き合い方や嫌いな人とうまくやる方法、幸せの感じ方などについての自己啓発本やセミナーは世の中に数えきれないほどありますが、どれが自分にとってしっくりくる考え方や方法なのかは読んでみたり聞いてみないと分かりませんし、長続きしない場合があります。

過去の私もその内の一人で、読んでみて聞いてみては「これで自分は変われる!」と思うものの、長続きせずに、新たなストレスや嫌悪感、劣等感を抱いてしまい、堂々巡りとなってしまうことが長年続きました。

そんな日常が長く続いていたある時、たまたま『嫌われる勇気』を本屋で見かけて、立ち読みしていたところ、私にとっては内容が斬新であり深くて、自分に刺さるものが結構あり、とても立ち読みで理解できるようなボリュームではなかったので、購入してみました。

『嫌われる勇気』は、哲学者と青年の対話篇形式によって、アドラー心理学の思想を解き明かしていく内容になっています。

青年は幼少の頃から自分に自信が持てず、出自や学歴、容姿について強い劣等感を持っていて、他者の幸福を心から祝福することができず、自己嫌悪に陥るタイプでした。

その青年が哲学者の元を訪れたのは、「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」と主張する一風変わった哲学者の噂を聞きつけ、自分の目で確かめるためでした。

青年と哲学者との対話の中で、哲学者は青年に「今のあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだから」と言い切ります。

「不幸である」というのは、その人の人生観であり、世界の見方であり、そうした意味付けを自ら選択しているというのが哲学者の主張でした。

また、これまで通りの「不幸である」という人生観や世界観を選び続けるか、「必ず幸せになれる」のような新しい人生観や世界観を選び直すかは自分の一存にかかっていると続けます。

つまり、生まれながらにして先天的に不幸であるのではなく、後天的に自分で人生を選び直し、幸せになることができるはずという主張でありました。

私たちは、「ああなりたい」「こうなりたい」と自分の理想像を描くものの、なかなか理想に向かって歩み出せないことは往々にしてあると思います。

これは、新しい自分に生まれ変わることより、今のままである方が楽だから、今を選択していると言い換えることもできるでしょう。

勿論、今の環境や状況が多忙すぎたり、生活の為にやむなく今を選択していることもあるかと思います。

幸せの基準は、人によって異なるものなので、理想はあるものの今でも十分に幸せという人もいるでしょう。

問題は、「今が不幸である」と感じている人が今を選択していることにあります。

今のままである方が楽だから今を選択しているのに、今を不満に感じてしまったり自分が置かれている境遇を嘆いてしまう。

今が不幸だと感じているのに、変わる勇気や強い意志を持てないがために、今を選択してしまう。

つまり、自分の人生観や世界観を変えないでおこうと不断の決心をしているのです。

2.「主観的な解釈」により自ら劣等感を生み出している

私たちは、他者と共存していく過程において、うまく付き合える人もいれば、馬が合わない人も出てくるものだと思います。

「あの人はいいところあるけど、この人は・・・」のように、比較するようになると、いつのまにか優劣を付けてしまいがちです。

振り返ってみると、私が長年抱いていた他人との人間関係についてのストレスや悩み、劣等感の根源にあったのは、「他者と自分の比較」「他人の批評」「自分が正しいという自負」でした。

例えば、

「あいつは楽そうでいいな。自分はこんなに不遇な状況にいるのに」

どうしてあいつが評価されるのか。自分の方が正しいことやってるのに」

「あいつは努力が足りない。自分はこれだけやってるのに」

「あいつの考え方はおかしい。普通はこうでしょう

「あいつの言い方はひどい。自分ならこういう言い方をする」

このように、自分が劣っていたり、相手が間違っていたりすることに着目しては執着するようになり、自分と他人との間に優劣を付けてしまうのです。

『嫌われる勇気』では、哲学者が青年に対して劣等感について説明している部分があります。

「劣等感」とは、自らの価値判断に関わる言葉であり、自分には価値がないのだといった感覚であるのだが、それは、「他者との比較-つまりは人間関係-の中で生まれた、主観的な劣等感」である。

われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」である。

主観的な解釈は、自分の手で選択可能である。 

出典元:『嫌われる勇気』 岸見一郎 古賀史健[著]

例えば、友達が沢山いる人(Aさん)と数える程しかいない人(Bさん)がいて、どちらが優れていて、劣っているかとという議論をするとします。

客観的な事実としては、Aさんは友達の数が多い、Bさんは友達の数が少ないということは言えるでしょう。

しかしながら、友達の数が多いAさんに対して、友達の数が少ないBさんが友達の少なさにどのような意味付けをしているかにより、劣等感を感じているか否かが別れます。

もし、Bさんが「Aさんのように友達が多ければ、毎日が楽しくなるし、人間関係で苦しむこともないだろうな」のように羨ましがっているのなら、劣等感を感じてしまうでしょう。

一方で、Bさんが「狭く深い人間関係を構築する方が交友関係が少なくて済むし、気を使うこともなく楽であるから、友達の多さは気にならない」と考えていれば、Aさんに対して劣等感を感じることはないでしょう。

このように、客観的な事実に対して、「主観的な解釈」をして意味づけを施すことで、劣等感に苦しむのか、劣等感を感じないのかを自らの手で選択できるのです。

『嫌われる勇気』に登場する哲学者も、自分の身長が155cmと男性にしては低く、若い頃は悩んでた時期がありました。

「もし人並みの身長があれば、あと20cm、いやせめて10cmでも身長が高ければ、なにか変わるんじゃないか。もっと楽しい人生が待っているのではないか。」と思い悩んでたようですが、ある友人に相談した時に「大きくなってどうする?お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と一蹴されたのです。

その時、哲学者は、「大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうかもしれないけど、小柄なわたしであれば、相手も警戒心を解いてくれる。小柄であることは自分にとっても周囲の人にとっても、好ましいことなのだ」と思わされました。

身長が低いという客観的な事実に対する哲学者の「主観的な解釈」が転換した瞬間です。

ただし、客観的な事実によってその人の価値が決められてしまう一例として、営業職やプロスポーツ選手等が挙げられます。

どれだけ真面目に取り組んでいても結果が全ての世界に身を置いてしまうと、残念ながら客観的な事実(成績・業績)により優劣を付けられてしまうので、どうしても他人との劣等感を感じざるを得ないこともあるかと思います。

そうした世界に身を置くなら、目標や達成するまでの期限を決めて、誰に何を言われようと自分の信じた道を突き進む覚悟と信念を持って取り組むことが必要です。

期限までに目標が達成できなかった時には、潔く身の振り方を考えると決めておけば、もはや比較対象は他人でなく、「自分自身」となります。

目標に向かって今日はどれだけ取り組めたのか、昨日の自分より今日の自分は前進できたか、と理想の自分と今の自分を見るようにするのです。

3.人生は他人との競争ではない

「〇〇さんはまだまだ甘い」「▢▢さんはズルい」「△△さんは恵まれている」のように、他人をやたら評価したがる人って、少なくないと思います。

年を重ねれば重ねるほど、人生経験を積んでいき、世の中のこと知った気になって、他人を評価することに心地良さを感じてしまうのでしょうが、そもそも他人が誰かを評価するのって、少し奢った感があるように思います。

誰かを評価するようになると、自分と他人との優劣を付けるようになり、自分より優れているなと感じる人や自分より恵まれている人に対して、劣等感を感じるようになるでしょう。

軸を「他人軸」に置いている限り、他人の動向や態度、発言が気になり、脅威に感じる人に敵対心さえ感じるかもしれません。

そうではなくて、軸を「自分軸」に置き、比較対象も「昨日までの自分」「理想の自分」にすると、他人のことが気にならなくなり、評論をすることもなく、劣等感も感じなくなります。

『嫌われる勇気』では、哲学者が次のように青年に説きます。

誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

われわれが歩くのは誰かと競争するためではない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。

出典元:出典元:『嫌われる勇気』 岸見一郎 古賀史健[著]

私たちが、人間関係において苦しむのは、自分と他人との比較におけるギャップやズレが起因となります。

自分の考え方と他人との考え方の違いやズレ、自分が他人に期待している理想像と現実とのギャップ、自分の思うように他人が動いてくれない時の苛立ち等により、他人を嫌い、憎しみ、批判し、排他しようとするようになるのです。

そうしたギャップやズレ、違いに対して、どのように意味づけを施すかによって、その後の人間関係のあり方はいかようにも変わります。

そもそも他人をコントロールすることはできません。

よって、自分の思うとおりに必ずしも他人が動いてくれたり、期待に応えてくれることはないことを受け入れられれば、コントロールするべきなのは「自分」であることに気が付くはずです。

自分をディスりまくる人、嫌がらせをしてくる人、粗探しする人、好き嫌いで評価する人に対しては、無反応でいましょう。

相手をすれば付け上がるし、反論しようものなら相手の思うツボです。

「なんかウニャウニャ言ってる人がいるなあ」くらいに思って、空気以下の存在に思っておけばいいです。

ただし、自分に足りない部分を批判してる場合もあるので、言い方や感情には全く関心を持たず、為になる部分を切り抜きにして、心の学習ノートに貼り付けておくといいですよ。

また、嫌なことを言われるのは、「心の筋トレ」だと思っておけば、どんどんメンタルが強くなっていくものです。

自分軸で生きるには、「心のストイック」さを磨く必要があります。

他人の目を気にせず、批判に動じず、常に「昨日までの自分」や「理想の自分」といまの自分を比較して、前に歩みだしていけば、劣等感なんていつのまにかなくなっているはずです。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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